『方輿勝覽』は、南宋(1127年〜1279年)の領域の十七の路(現在の省にあたる)をそれぞれの路に属する行政単位である府・州・軍に分けて、そこに関する歴史・風俗・物産・地形・建築物・名所旧跡・人物・詩文などを記載した書物である。特に、文化的なものについて詳しく述べている。ただし、境界・人口・税などは記さない。また、地図も付されていない。
 この書物は、宋の祝穆が編集し、祝穆の子の祝洙が増補したものである。編者の祝穆は、字を和父といい、建寧府(福建省)崇安県の人である。曾祖父は、朱子の外祖父になる。増補した子の祝洙は、字は安道、宝示右四年(1256)の進士である。
 最初の『方輿勝覽』は、祝穆によって嘉煕三年(1239)に出版された。紀州藩文庫所蔵の『方輿勝覽』は、この書物を祝穆の子供の祝洙が増補したものである。咸淳二年〜三年(1266〜1267)に出版されている。増補版といっても、もちろん宋代の出版物である。
 さて、現存する唐・宋時代の地理書は、七種に過ぎない。そのため、これらの書物はたいへん重視され何度も再出版されている。ただ、『方輿勝覽』のみは例外であった。利用価値がなかったというわけではない。南宋末には、「インテリの家にはこの書物があった」といわれた書物である。出版当時には、かなりの需要はあった。
 では、再出版されなかった理由は何かというと、その体裁にあった。『方輿勝覽』は、その地域ごとにそこに関する大量の詩文が収められている。極端な言い方をすると、地理書の形をとった詞華集(アンソロジー)というようなものであった。これは、編者が特に「四六文(駢儷文:四字六字の対句を用いた美文)」を重んじていたことを示している。そもそも、『方輿勝覽』は、最初に出版された時には、毎巻の表題に「新編四六必用方輿勝覽」と記されていた。つまり、「四六文」作成のために用いる書物としての性格を持たせているのである。もっとも、増補版になると、「四六必用」という文字がなくなってはいるのであるが。いずれにせよ、駢儷文を作るための手引書の意味を持った書物であった。
 もともと宋代は、上奏文などを書く時は駢儷文を用いなければならなかった。ところが、次の元・明の時代になると、こういう風潮はなくなる。文体に変化が起こったからである。このため、インテリ必備の書ではなくなった。また、詩文をたくさん収めたため、本来の地理に関する記述が手薄になっている。こうして、出版された時の長所が、かえって短所となり、中国では殆ど読まれることがなくなっていったのである。
 ところが、日本では事情が異なった。もともと、中国の地理に対して関心が薄く、詩文に重点が置かれていた。そんなところでは、この『方輿勝覽』は詩文のかっこうの手引書となった。しかも、今のように中国の書物がすぐに手に入るという時代ではない。一冊の中に大量の詩文が歌枕ごとに要領よく収められている書物は、ほんとにありがたい存在であったに違いない。こうして、日本ではかなり読まれ、大切にされ続けてきたのである。



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